金融緩和が止めたのは、賃金総額の崩壊である

金融政策

データの裏付けがないデフレ容認論

「デフレは悪いことばかりではない」というナラティブがオールドメディア中心に語られてきた。物価が下がるのだから、給料が上がらなくても生活水準は保たれる。名目の賃金には下方硬直性があるから、そう簡単には下がらない。そうした説明が、いまも繰り返されている。

統計を見れば、すぐに崩れる話である。1997年を100として、国内で支払われた賃金の総額と消費者物価指数総合の推移を並べてみたい。賃金の総額とは、内閣府が「総雇用者所得」と呼んでいるもので、毎月勤労統計による1人当たりの名目賃金に、労働力調査による雇用者数を掛けて算出される。日本国内で働く人全員が受け取った給与の合計額である。

2012年末、物価は96.3であった。1997年から4パーセントほど下がったに過ぎない。同じ時点で、賃金の総額は87.7である。12パーセント以上の下落だ。

物価の緩やかな下落の背後で、国民の賃金は3倍以上の速さで失われていた。

なぜ総額だけが大きく落ちるのか

個々の企業が名目の給与額を引き下げるのは、たしかに容易ではない。下方硬直性という指摘そのものは間違っていない。

だがマクロ経済全体で見れば、話は別である。デフレ下で企業が減らすのは1人当たりの給与ではなく、雇う人数のほうだ。倒産なら言うまでもないが、操業を続ける企業も採用を絞り、正社員を非正規に置き換え、支店や事業所を畳む。賃金は下がらなくても、賃金を受け取る人が減る。だから総額は落ちる。

これは物価が安くて暮らしやすかった時代などではない。失業と関係ない公務員や大企業サラリーマンは別としても、賃金と雇用と売上げが互いに縮小していく、典型的なデフレ不況であった。企業にとって賃金は費用だが、経済全体で見れば家計の所得であり、消費を支える需要である。その総額が15年近く減り続けたのだから、個人消費が弱く、企業が国内投資に慎重になったのも当然であった。

2013年に何が変わったか

転換点は明瞭である。2012年12月安倍晋三内閣が発足してアベノミクスを掲げ、政策の方向が変わった。政府日銀の共同声明(アコード)を経て、日本銀行が量的・質的金融緩和を正式に導入したのが2013年4月であった。マネタリーベースを大幅に拡大し、デフレからの脱却を明確に掲げた。

そこから、長期にわたって低下していた賃金の総額が底を打ち、持続的な上昇に転じている。偶然として片づけられる動きではない。

金融緩和の最大の成果は、物価を上げたことではない。雇用と賃金の総額を、増加の軌道に戻したことである。底からの13年で、賃金の総額は3割以上増えた。同じ期間の物価上昇は2割程度である。したがって物価を差し引いた実質でも、家計の所得は増えたことになる。

ただし、ここは正確に述べておかねばならない。総雇用者所得は1人当たりの賃金ではない。この上昇には、賃上げだけでなく働く人が増えた効果も含まれている。女性と高齢者を中心に雇用が広がり、失業が減った。それ自体は緩和の重要な成果であるが、すべての労働者の実質賃金が同じように増えたわけではない。2つは区別しなければならない。

それでも、まず雇用が増え、次に人手不足が強まり、その後に賃金が上がるという順序は、経済学的に自然なものだ。金融緩和が直ちに賃金を引き上げるのではない。金利と資産価格と為替を通じて企業収益と投資を動かし、労働市場の余裕を縮小させることで、賃上げを促す。時間がかかるからといって、効果がなかったことにはならない。

片方でアクセルを踏み、もう片方でブレーキを踏んだ

グラフのうえで、もう1つ目立つ動きがある。2014年と2019年の消費税率引き上げである。

とりわけ2014年には、物価の線だけが跳ね上がり、賃金総額との差が一時的に広がった。内閣府自身も、この増税が税負担の増加を通じて実質所得を押し下げ、消費を低下させたと分析している。

需要不足から脱し切っていない時期に、金融政策でアクセルを踏み、財政政策でブレーキを踏む。回復が遅れるのは当然である。

景気が過熱しているならいざ知らず、賃金の総額が1997年の水準を大幅に下回り、デフレ脱却も確認できていない段階での増税は、政策の組み合わせとして適切ではなかった。批判されるべきは誰かの人格ではない。この判断である。

もっとも、金融緩和にも限界はあった。2013年以降、雇用と賃金総額は改善したが、物価上昇率を安定的に2パーセント程度へ定着させ、同時にそれを上回る賃金上昇を実現するまでには長い時間を要した。生産性の向上、人への投資、価格転嫁の徹底、下請取引の適正化、これらは企業の判断が必要だった。金融政策だけでは実現できない。緩和は必要条件であって、十分条件ではなかった。

いまの物価上昇は、性質が違う

2020年のコロナ禍で賃金総額は急落したが、その後の回復は比較的早かった。大規模な緩和に加え、年間100兆円にも上る新規国債発行による財政出動、雇用調整助成金と資金繰り支援によって、企業と雇用の連鎖的な崩壊を防いだためである。リーマン・ショック後のような長期の所得低迷に陥らなかったことは、評価されるべきだ。

一方、2022年以降の物価急上昇の主因は、国内需要の過熱ではない。世界的な供給制約、資源と食料の価格高騰、ロシアによるウクライナ侵略、そして内外金利差を背景とする円安が重なった。輸入物価は円ベースで3割を超えて上昇し、時間差を伴って消費者物価へ転嫁された。コストプッシュ型である。

この局面で物価だけを見て急激な引き締めを行えば、原油や穀物の国際価格は下げられないまま、国内の雇用と賃金だけが傷つく。金融政策が抑えられるのは、国内需要から生じるインフレである。海外から来た供給ショックに対しては、家計の手取りを直接増やす減税と、エネルギー効率の改善、供給力の強化を組み合わせるほかない。

そしてグラフの終点では、賃金の総額と消費者物価が、ともに1997年を16パーセントほど上回るところまで来ている。30年ぶりに賃金が物価に追いついた到達点である。

約30年かかった。だがこれは、ようやく1997年当時の総購買力に戻ったにすぎないとも言える。諸外国はこの間はるかに早く経済成長を実現している。デフレで日本は遅れてしまった。しかも雇用者数と人口構成が変わっている以上、個々の勤労者の生活実感が完全に回復したことを意味しない。

これから必要なのは、総額の増加を雇用者数頼みから1人当たり賃金の上昇へ移すことだ。名目賃金を物価上昇率より毎年1から2パーセント高く伸ばす。そのために景気を不必要に冷やさず、中小企業の価格転嫁を徹底し、省力化と人への投資を支え、社会保険料の負担を軽くする。

物価上昇を上回る賃金上昇が数年にわたって続くまで、政策の中心に置くべきは金融引き締めではない。減税を中心にして家計の実質所得を着実に増やすことが不可欠だ。

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